
Balenciaga:クチュール界の建築家とその遺産を受け継ぎ再構築するものたち
「クチュール界の建築家」クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)が築いた構築的で革新的な衣装の世界。そしてニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquiere)、アレキサンダー・ワン(Alexander Wang)からデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)に至るまで、歴代のデザイナーたちはその遺産を受け継ぎながらそれを再解釈、常に時代の先端を走り続けてきた。本記事では伝統と実験性、エレガンスとストリート… 相反する要素を融合させながら、今もなお進化を続けている〈バレンシアガ〉の歩んできた軌跡を辿る。
創設者クリストバル・バレンシアガ:1917~1968
「クチュール界の建築家」の誕生
1895年、スペイン北部のバスク地方にある漁村、ゲタリアに生まれる。幼い頃に父親がなくなり、仕立て屋として働いていた母親が一人で三人の兄弟を育てたという。そんな彼女を手伝うため、クリストバルは幼少期から裁縫を学び始めた。そしてビスケー湾に面するリゾート地、サン・セバスティアン(San Sebastián)で働く仕立て屋に、わずか12歳で弟子入りをする。
そんな彼の才能をはじめて認めてくれたのは、10代の時に母が仕えていたカサ・トレス侯爵家(Marquesa de Casa Torres)の伯爵夫人。彼女が着ていたドレコール(House of Drecoll)のガウンを模倣して作ったドレスが夫人の目に留まったのだ。こうして彼女はクリストバルの最大の支援者となり、服飾学校の教育費を払ってくれたのだという。
祖国スペインからフランスへ
カサ・トレス侯爵夫人の支援を受け、1917年にサン・セバスティアンにオートクチュール・メゾンを設立。現在も人気のリゾート地であるサン・セバスティアンは、当時も王侯貴族や富裕層が避暑や海水浴に訪れる華やかな社交の場であり、グルメやモード、ホテルなどラグジュアリー産業が興隆していた場所である。
1930年頃には、既にスペインファッション界をリードするクチュリエとなっていたクリストバル。スペイン王室をも顧客に抱えるメゾンへと成長し、首都マドリードやバルセロナにも出店した。しかし、1936年にスペイン市民戦争が勃発。彼はやむを得ず、スペイン全土のクチュール・ハウスを閉め、フランスに逃れた。
バレンシアガ©BOF バレンシアガ ©FASHIONSNAP
パリにオートクチュール・メゾンをオープン-1937年
パリのジョルジュ・サンク通り10番地にオートクチュール・メゾン、「ハウス・オブ・バレンシアガ」をオープン。最初のコレクションを発表すると、シンプルで美しい、とメディアやバイヤーたちから注目を集め、パリファッションの象徴として世界的な名声を得る。
当時、デザイン・パターンから縫製まで全てをこなせるデザイナーはバレンシアガのみだったそう。デッサンを必要とせず、マネキンに生地をまとわせて直に裁断しドレスを生み出す彼は「マスター・オブ・イリュージョン(Master of illusion)」と呼ばれた。そして第2次大戦後、バレンシアガの名はさらに高まることになる。
戦後のニ大ブランド、〈ディオール〉と〈バレンシアガ〉-1940s
同年に「ニュールック」でデビューを飾った〈ディオール〉と〈バレンシアガ〉はそれぞれ異なる革新を起こし、世界を代表する二大ブランドとなった。〈ディオール〉の「ニュールック」は、コルセットで細く引き締めたウエストと広がるスカートが特徴。
戦時中の耐乏服とは対照的な華やかさを持ち、平和の象徴として大流行した。一方〈バレンシアガ〉はウエストラインから女性を解放するトノー(樽型)ラインを生み出す。クリスチャン・ディオールはクリストバルについて、「彼は私達みんなの師匠だった」と言い、古い価値観から女性を解放を目指したココ・シャネルも彼を「真のクチュリエだ」と称賛している。47年には、ブランド初となるフレグランス「Le Dix」も発表。これはフランス語で「10」を意味し、当時のメゾンの住所から名付けられたと言われている。
トノーライン©BALENCIAGA ニュールック©︎Dior
トノーラインのビデオ「Balenciaga Mujer Paseando Observada」
どんな体型でも自由に着こなせる衣装を-1950s
40年代に引き続き、ウエストラインから女性を解放するデザインを生み出し続ける。1951年に「Vareuse」や「Cocoon」ライン、1952年に時代を超えたデザインとして今も人気を誇る「Parachute」ドレスを発表。
©BALENCIAGA ©L'OFFICIEL
1953年にはウエストをヒップ位置まで下げた「バレル・ルック」を提案し、どんな体型の女性でも自由に着こなせる革新的なデザインを確立した。同年、「バルーンジャケット」を発表。ボリュームのある袖と丸みを帯びたシルエットが特徴であり、このデザインを通じて女性のシルエットに新たな魅力を与え、後のデザイナーたちに影響を与えた。
1956年、映画『Anastasia(追想)』の主演俳優、イングリッド・バーグマンの衣装を手がけた。
映画『Anastasia(追想)』の主演俳優、イングリッド・バーグマンとその衣装 ©ELLE ©たなべ書店
1957年には代表作「Sac(嚢)」ドレスを発表し、本格的にウエストラインを打ち消した。さらに、1958年には「Baby Doll」ドレスを制作。希少なガザール生地(純粋なシルク)をつかい、独特の立体感を持つデザインを実現した。
Sac dress, Baby Doll ©BALENCIAGA
スペインのフラメンコスタイルにインスパイアされた「PEACOCK」ラインも登場。ドラマチックで時代を超越したイブニングドレスとなる。そして同年、バレンシアガはファッション業界への貢献が認められ、レジオンドヌール勲章騎士の称号を授与される。
PEACOCK LINE©BALENCIAGA
ウエストラインという概念を超えたデザインへ-1960s
63年、「Sari(サリー)」ドレスを制作。「20世紀のクレオパトラ」と呼ばれるエリザベス・テイラーも着用したとか。65年には「Pétale(花びら)」ドレスも登場した。
SARI DRESS, PETALS DRESS©BALENCIAGA
67年には、世界最古の女性向けファッション誌、ハーパーズ バザー(Harper's Bazaar)の表紙に、クリストバルの「envelope(封筒)」ドレスが起用された。モデルは当時イタリアのファッション界を牽引していたイタリア人モデル兼ファッション写真家Alberta Tiburzi。
エンベロープドレス©FASHIONSNAP
クリストバルの引退-1968
フランスで五月革命が勃発し、クリストバルは贅沢で優雅なファッションを楽しむ時代ではなくなった、とメゾンを閉鎖、引退を発表。30年にわたるファッション業界の革新を経て、スペインの自宅へと戻る。1968年に開催された彼の最後のショーで、その喪失を嘆く顧客に次はどこで服を仕立てれば良いのかと聞かれると、ただ「ジバンシィ(Givenchy)」とだけ答えたという逸話も。
クリストバル最後のショー©BALENCIAGA ©CANALBLOG
クリストバルは引退から4年後の1972年に亡くなり、故郷であるバスク地方に埋葬される。甥の手に渡ったメゾンは73年にニューヨークのメトロポリタン美術館で「The World of Balenciaga」展を開催した後、1986年まで休眠状態に。86年、フランスのフレグランスブランド、ジャック・ボガート(Jacques Bogart SA)がブランドの権利を取得し、新しい既製服ライン「ル・ディックス(Le Dix)」を発表。これは1947年に初めて発売された〈バレンシアガ〉初の香水にちなんで名付けられたが、期待した成果には至らなかった。
ジェスキエールの〈バレンシアガ〉:1997~2012
救世主ニコラ・ジェスキエール-1997
現在はマーク ジェイコブス(Marc Jacobs)の後任として、〈ルイ・ヴィトン〉のアーティスティック・ディレクターに就任したジェスキエール。〈バレンシアガ〉には95年、フリーランスとして参加した。
1971年フランス生まれの彼だが、ファッションの教育を受けてきたわけではない。高校時代から〈アニエスベー〉などのブランドで経験を積み、高校卒業後は19歳でファッション界の巨匠、ジャンポール・ゴルチェ(Jean-Paul GAULTIER)の元で働く。2年間ニット部門のアシスタントデザイナーとして働いた後、〈ミューグレー〉、〈ステファン・ケリアン〉、〈トラサルディ〉でヘッドデザイナーとして活躍していたジェスキエール。
バレンシアガを担当するようになった当時は、日本のライセンス・パートナーのためにゴルフウェアなどをデザインしていたという。ちょうどその頃、デザイナーを務めていたジョセフュス・ティミスター(Josephus Melchior Thimister)が突然の退任。そして新人デザイナーであるジェスキエールが、異例の26歳で就任した。
ニコラ・ジェスキエール©exhibition magazine
イメージを刷新。デビューコレクション-1998
ジェスキエールの〈バレンシアガ〉デビューとなったSSコレクションのコンセプトは「21世紀の大人の女性」。クリストバルのDNAを引き継ぐと同時に、新たな風を吹き込んだ。このコレクションは強烈な印象を与え、クリストバルなき後のバレンシアガのイメージを刷新した。ちなみに、2000年代のブラジリアン・モデルブームを牽引した当時17歳のジゼル・ブンチェン(Gisele Bündchen)が世界的スーパーモデルへと躍進したきっかけのコレクションともいわれている。
98年SSコレクション©AnOther
ブランドの完全復活-2000s
2000年10月、ジェスキエールはVHI・ヴォーグファッション・アワードで「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。翌年2001年にはCFDA(アメリカファッション協議会)のインターナショナル・デザイナー・アワードと「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イアー」を受賞した。
さらにこの年、彼のデザイナーとしての才能とブランドの歴史的価値が評価され、〈グッチ〉を傘下に収めるケリンググループが〈バレンシアガ〉を買収する。縮小していた事業の拡大のため、世界各地に旗艦店をオープン。こうして〈バレンシアガ〉は本格的に復活することになった。
“エディターズバッグ”の誕生-2001
レディースラインのみだった同ブランドは、この年にバックと靴のラインを発表、2002年にはメンズラインを発表し展開を広げた。バッグのライン名は「Balenciaga Classic (バレンシアガ クラシック)」。その中でも“ル シティ”バッグは「ロゴなし、軽量、使いやすい」と、当時のイット・ガールズはもちろん、特にファッションエディターの間で大流行。 “エディターズバッグ”と呼ばれ、ブランドのシグネチャーバッグとなった。
左からケイト・モス“ル シティ”バッグ、シエナ・ミラー “ル シティ”バッグ©ELLE 、サラ・ジェシカ・パーカー ビッグサイズの「バレンシアガ」“ル シティ”バッグ
ロボット・レギンス!?-2007
何百個もの金属パーツで作られたレギンスをビヨンセ(Beyonce)がこの年のBETアワードで着用し、一躍話題に。
ロボット・レギンス2007©VOGUE RUNWAY 、ロボット・レギンスを着用するビヨンセ©ELLE
不動の人気'Ceinture' bootsの登場-2010
2011SSコレクション内で発表され、ジェスキールが「テディボーイとパンクのマスキュリニティが融合したもの」と評するアイコニックなこのブーツ。「Ceinture」は「ベルト」を意味している。サイドに大きなカットアウトが施され、太めのバックルで留められたこのアンクルブーツ。現在でも変わらぬ人気を誇り、ファッションウィークのストリートスナップに度々登場する。
クリストバルの〈バレンシアガ〉の復刻版-2012
デザインスタジオが、“バレンシアガ・エディション”ライン('Balenciaga Edition' line)と称した、クリストバル・バレンシアガのオリジナルデザインに基づいたカプセルコレクションを発表。翌年、1967年にデザインされたドレスをケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)が着用したことで話題を呼んだ。
この年、15年もの間クリエイティブ・ディレクターを務めたジェスキエールがバレンシアガを離れる。
ワンの〈バレンシアガ〉:2012~2015
モード界の神童、アレキサンダー・ワン-2012
ジェスキエールの後任にはモード界の神童と呼ばれたアレクサンダー・ワン(Alexander Wang)が就任した。
台湾系アメリカ人としてサンフランシスコで生まれ育ったワン。NYのパーソンズデザインスクール(Parsons School of Design)でファッションを学ぶ。在学中は〈マーク・ジェイコブス〉〈デレク・ラム〉などで経験を積み、2004年に自身の名前を冠したブランドを立ち上げ、07年にニューヨークコレクションでデビュー。CFDA/VOGUEファッション基金アワードなど様々な賞を受賞しデビュー当初から注目を浴びてきたデザイナーだ。自身のブランド以外のディレクションは〈バレンシアガ〉が初。
アレキサンダー・ワン©FASHIONSNAP
ラグジュアリーな衣装を日常に-2013
就任後はじめてのコレクションでは、大理石をモチーフに、彫像のように無機質でなめらかなデザインが特徴。ブランドの伝統を一新するのではなく、彼の得意とするパターンワークやカッティングを、老舗メゾンの力を借りて最大限に発揮させたものとなった。
©ELLEgirl ©Condé Nast.
”原点回帰”を掲げたこのコレクション。クリストバルのコクーンコートを現代風に。
デザイナー・ワンと着物風ドレスを纏うガガ©Harper's BAZAAR
「ラグジュアリーな衣装を日常に取り入れる」という理念のもと、繊細で神話的な世界観を構築したワンだったが、2015年に2016ssをもって契約終了。最後のコレクションは白を基調にまとめられ、彼の美学が際立つ締めくくりとなった。アレキサンダーは自身のブランドに専念するため、バレンシアガを去る。
デムナの〈バレンシアガ〉:2015~2025
ラグジュアリー・ストリートの先駆者デムナ-2015
ワンの退任後、クリエイティブディレクターに就任したのは〈ヴェトモン〉の創業者でありデザイナーのデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)。
1981年、ジョージア(旧ソ連)のスミフに生まれた彼は、内戦を逃れるため家族とともにトビリシへ移住。2001年にトビリシ国立大学を卒業し、国際経済学の学位を取得した。同年、両親と共にドイツのデュッセルドルフへ移り住むが、「ファッション業界で働きたい」という夢を叶えるため、アントワープ王立芸術アカデミーへ入学。在学中の2004年には、イタリアの国際的なファッションコンテスト「ITSコレクション・オブ・ザ・イヤー」を受賞。2006年、同アカデミーのファッションデザイン学科修士課程を修了した。
その後、〈メゾン マルタン マルジェラ〉や〈ルイ・ヴィトン〉など、パリの名だたるメゾンでプロダクトデザイナーとして経験を積む。服作りへの情熱を形にするため、2014年に自身のブランド〈ヴェトモン〉を設立。同年末にパリで発表した初のランウェイ・コレクションは、ラグジュアリー・ストリートの先駆けとして大きな注目を集めた。そして2015年、〈バレンシアガ〉のアーティスティック・ディレクターに就任。
新時代の〈バレンシアガ〉到来-2016
デムナは初のコレクション(16’FF)でクリストバルの構築的な要素を受け継ぎつつ、リアリズムを軸に据え、大胆に新たな方向性を打ち出した。モダンなラグジュアリーストリートへと落とし込まれたそのスタイルは、従来のブランドイメージとは一線を画すものだった。ヴェトモンで培ったラグジュアリーストリートの感覚が、バレンシアガでさらに洗練され、若い世代から熱狂的な支持を集めた。
ダッド・スニーカーブームの火つけ役-2017
2018年FFメンズ・コレクションで発表されたスニーカー、トリプルS(TRIPLE S)。「ダッドスニーカー」という流行語を生み出した一足ともいわれている。サイドに“BALENCIAGA”の文字をあしらい、アッパー部分にはハンドメードのコラージュをイメージしたというこの靴は発売と同時に即完売。モデル名は「トリプル ソール」の略で、ランニングシューズ、バスケットボールシューズ、トラックシューズという3つのソールを組み合わせたことに起因するそう。
また同年、ブランド初となるキッズコレクションも発表。
ロゴの刷新-2017
新たなロゴは、SSコレクションで発表された。公共交通機関の標識などのわかりやすさ、平等さに影響を受けたデムナ。全体を短く、簡潔にすることで〈バレンシアガ〉の「ラグジュアリー」を際立たせているそう。
旧ロゴ©Balenciaga 新ロゴ©WWD
デムナ、〈ヴェトモン〉を去る-2019
デビュー以来、「DHL」Tシャツや“袖コンシャス”なビッグシルエットのトレンドを生み出し、常に話題を提供し続けてきた〈ヴェトモン〉。カルト的な人気を誇るブランドへと成長させた創業者でありデザイナーのデムナは、〈バレンシアガ〉での活動に専念するため、自ら立ち上げたブランドを離れる決断を下した。
クチュールコレクション発表-2021
創業者クリストバルがアトリエを閉鎖した1968年以来53年ぶりとなるクチュールコレクションが発表された。デムナによるオートクチュールのデビューコレクションは、クリストバルがパリで最初にメゾンを設立したジョルジュ・サンク通り10番地にて開催され、当時のサロンを再現したアトリエが設けられた。このショーは伝統的なオートクチュールの形式にならい終始無音で行われたという。
クチュールコレクション21年©VOGUE JAPAN 、ショー会場は、クリストバル・バレンシアガが当時クチュールのサロンとして使用していたジョルジュサンク通り10番地の店。 ©VOGUE JAPAN
itバッグのカムバック-2020
「バレンシアガ クラシック (Balenciaga Classic)」の発売20周年を記念してFFコレクションで発表された新作「ネオ クラシック (Neo Classic)」は、オリジナルの「クラシック」バッグをベースに、デムナによる詳細なアップデートが施されたライン。2000年代初期のItバッグに、現代的なエレガンスと使いやすさが加わり、再びItバッグとして登場した。
泥ランウェイからの問いかけ-2023
このSSコレクションでは、泥で覆われたランウェイが会場を圧倒した。デムナはこれを「真実を掘り下げ、現実的であることのメタファー」と表現し、混沌とした現代社会を象徴しているようだった。ファーストルックにはYe(カニエ・ウェスト)が登場し、セキュリティジャケットを身にまとって泥水を蹴り上げながら歩く姿が注目を集めた。
コレクションは、ビッグシルエットとタイトなトップス&ボリュームのあるボトムスを組み合わせた新たなシルエットが特徴的。激しいダメージ加工やクリスタルの装飾、アップサイクルのアプローチなど、ラグジュアリーの固定概念を揺さぶるアイテムが並んだ。
ショーの後に公開されたデムナのショーノートには、「誰もが誰にでもなれることを認め、戦争をするのではなく愛し合いましょう」というメッセージが込められており、ラグジュアリーの概念を再考させるショーとなった。
2023サマーコレクション©FASHION SNAP
芸術文化勲章シュヴァリエを受勲-2024
デムナがフランス文化大臣より芸術文化勲章シュヴァリエを受勲。デムナは破れた〈バレンシアガ〉のTシャツで式典に出席した。
(左から)ケリングのフランソワ・アンリ・ピノー会長兼CEO、ブランドアンバサダーで女優のイザベル・ユペール、デムナ、ラシダ・ダチ文化大臣。芸術文化勲章シュヴァリエ受勲式©FASHION SNAP
デムナ、最後のコレクション-2025
パリで発表されたこのFFコレクションは、デムナが手掛ける最後のプレタポルテコレクションとなった。7月に行われるクチュールショーをもって〈バレンシアガ〉での任期を終え、その後〈グッチ〉の仕事をスタートさせる予定である。
「スーツの基準とは何か。ただ“マイ・スタンダード”を作りたかった」とデムナは言う。これまではジップアップのパーカー姿が定番だった彼が、このショーではブラックのシャツとスーツを着用していた。デザイナーとして「スーツを着られるくらいには成長した」と自ら述べたように、スーツは彼にとって成熟や変化の象徴なのかもしれない。
スーツをデザインする上で、彼が最も苦労したのは「自分が着たい」と思えるものを作ることだったそう。前年のハロウィン、「最も恐ろしいコスチューム」として、ルール通りのオーダーメイドスーツを着たというデムナ。ジャケットは胸囲が広すぎ、パンツはタイトでクロップド丈。「動けなかったし、バカみたいに感じた」と振り返っている。しかしこれがこのコレクションのメインである、スーツデザインのヒントとなったのだ。
2025FFコレクション©VOGUE JAPAN
2017年以降、デムナは〈バレンシアガ〉のクリエイティブ・ディレクターとしてファッション業界に大きなインパクトを与えてきた。彼はスニーカーやストリートウェアをラグジュアリーに昇華させ、社会問題へのメッセージなど、時に挑発的な演出で注目を集めた。また、アップサイクルのアプローチやジェンダーにとらわれないデザインも話題となり、数々の賞を受賞。そんなデムナが〈バレンシアガ〉を離れるのは惜しまれるが、次なる舞台でも彼は私たちに新しい世界を見せてくれることだろう。
おわりに
歴代の気鋭デザイナーたちは、創業者クリストバル・バレンシアガが築いた美学と革新の精神を継承しつつ、時代に合わせて再解釈してきた。彼のビジョンに共鳴し、敬意を払いつつも、自らのクリエイションを通じてブランドに新たな息吹を吹き込んできたのである。
創業者の哲学を尊重しながらも、常に挑戦を恐れず、自らのクリエイティビティを貫いてきたデザイナーたち。その積み重ねこそが、〈バレンシアガ〉というブランドを唯一無二の存在にし続けているのだ。
References
- AEワールド「The Legacy of Balenciaga」
- farfetch「今改めて振り返る Balenciaga の魅力 その歴史や代表作、サイズ感を完全ガイド」
- France「BALENCIAGA バレンシアガ」
- forbes「Lucien Lelong: Christian Dior’s Mentor Before The New Look」
- forbes「How Cristóbal Balenciaga Became The Master Of All Haute Couture」
- fashion press「NICOLAS GHESQUIERE」
- Fashion snap「ラグジュアリーとは何なのか?「バレンシアガ」が泥ランウェイに込めたメッセージを読み解く」
- Fashion snap「BALENCIAGASummer 23 Collection」
- Fashion snap「『バレンシアガ』とは?——元祖ダッドスニーカー、シンプソンズとコラボした最新コレクション、歴代デザイナー沿革まで」
- L'OFFICIEL「Cristóbal Balenciaga's Signature Looks」